本稿はASCO2026総まとめシリーズの第2回である。序章(Vol.1)で示した「5つの転換点」のうち、最も象徴的で、そして最も長く”不可能”と言われ続けてきた一つ——RAS標的——を正面から取り上げる。2026 ASCO Annual Meeting(シカゴ、5/29–6/2)のPlenary Sessionで発表されたRASolute-302は、転移性膵管腺がん(PDAC)という最難治がんで、汎RAS阻害薬が標準化学療法を上回る全生存(OS)改善を示した。「がん遺伝子の王様」と呼ばれながら40年にわたって創薬を拒んできたRASは、ついに最も硬い壁——膵がん——で陥落しはじめた。本稿では個別試験の数値を網羅するのではなく、“undruggable KRAS”の系譜、現在進行形のKRAS G12D阻害競争、そして「次に来る5本の矢」を独自の視点で読み解く。
「がん遺伝子の王様」が40年拒み続けたもの
RAS(KRAS/NRAS/HRAS)は、ヒトのがんで最も高頻度に変異する発がん遺伝子群である。膵がんの約9割、大腸がんの約4割、肺腺がんの約3割がRAS経路の異常で駆動される。にもかかわらず、RASは長らく“undruggable”(創薬不可能)の代名詞だった。理由は単純で、かつ手強い。RASタンパクの表面はつるりとして深いポケットを持たず、低分子が「引っかかる」足場がない。しかもRASは細胞内でGTPを極めて高い親和性で握りしめており、阻害薬が割り込む隙がほとんどない。1982年にヒトがん遺伝子として同定されて以来、世界中の創薬チームが挑み、そして退けられてきた。
もう一つ、RASが厄介なのは、それが「がんの根っこ」に近い場所に座っていることだ。RASは細胞膜の内側で、外からの増殖シグナルを受け取り、下流のRAF–MEK–ERK経路やPI3K経路へと”増えろ”の号令を伝える分子スイッチである。正常な細胞ではこのスイッチはGTPを結合した”ON”とGDPを結合した”OFF”を行き来して厳密に制御されるが、G12D・G12C・G12Vといった変異が入ると、スイッチがON側に固定され、外からの指示なしに増殖シグナルが鳴り続ける。経路の最上流に近いだけに、ここを止められれば効果は大きい——だが裏を返せば、つるりとした表面ゆえに止める手段がなかった。これが「効けば絶大、しかし誰も止められない」というRASの二律背反だった。
潮目が変わったのは2010年代である。研究者たちは、特定の変異型KRAS G12Cがシステイン残基という”反応する取っ手”を持つことに着目し、そこへ共有結合する低分子を設計した。これがsotorasib(Lumakras、Amgen)とadagrasib(Krazati、Mirati→BMS)である。前者は2021年5月、後者は2022年12月にFDA迅速承認を取得し、40年の”不可能”を初めて臨床で打ち破った。両剤はその後、大腸がんでは抗EGFR抗体(panitumumab等)との併用へと適応を広げ、「RASは創薬できる」という命題を臨床で確立した。ただし、この勝利には大きな限定符が付いていた。G12Cは肺腺がんでは比較的多いものの、膵がんで圧倒的多数を占めるのはG12DやG12Vであり、しかも反応性システインという都合のよい取っ手を持たない。最初の世代の薬はそこに手が届かなかったのである。加えて、G12Cで先行した薬剤も、奏効する患者は概ね3割程度、その半数が半年前後で進行するという、有効性と耐性の両面で限界を抱えていた。
つまり2021–2022年の到達点は「RASのうち、たまたま取っ手のあった一型を、たまたま肺で叩けた」段階に過ぎなかった。本当の壁——膵がんを支配するG12D、そして変異型を選ばず全RASを抑える”汎RAS”——は依然として聳え立っていた。2026年のASCOが歴史的だったのは、その本丸に複数の矢が同時に届きはじめたことを可視化した点にある。
本会議全体のテーマは“The Science and Practice of Translation”(科学と実践の翻訳)——基礎科学の発見を、地域や言語の壁を越えて実際の患者の利益へと”翻訳”する、というものだった。RAS標的の物語は、このテーマの最も純度の高い実例だ。「表面につるりとしたタンパクは創薬できない」という40年来の基礎科学的な常識を、化学・構造生物学・創薬技術の積み重ねが一つずつ覆し、ついに最難治がんの臨床現場へ届けはじめた。本稿は、その”翻訳”がどこまで進んだのかを、トレンドと系譜の地図として描き出す試みである。
RASolute-302:膵がんという「最後の壁」での成立
本会議のPlenary Session(最重要演題、LBA5)で発表されたRASolute-302は、既治療の転移性PDACを対象に、汎RAS阻害薬daraxonrasib(RMC-6236)の単剤を標準化学療法と比較した第3相試験である。報告された全生存(OS)中央値は13.2か月 vs 6.7か月、死亡リスクの約60%減。無増悪生存(PFS)・奏効率(ORR)でも有意な改善が示された。膵がんという、過去20年あらゆる新薬が跳ね返されてきた領域で、しかも単剤の経口分子標的薬がこの差を出した意味は重い。
daraxonrasibはRevolution Medicinesが開発するRAS(ON)阻害薬であり、その作用機序は従来の発想と一線を画す。多くの初期RAS薬が”OFF状態”(不活性型)のRASを狙ったのに対し、daraxonrasibは細胞内シャペロンであるシクロフィリンAとRASを糊付けする”トライコンプレックス(三者複合体)”を形成し、シグナルを発する”ON状態”(活性型)のRASを直接無力化する。さらに重要なのは、これが特定の一変異だけでなく複数の変異型RASを同時に標的とする“multi-selective(汎RAS)”設計である点だ。膵がんのように多様なKRAS変異が混在する腫瘍で、変異型を問わず叩けるという性質は、まさに最難治がん向けに誂えられている。
なぜ”活性型を狙う”という発想転換が効いたのか。従来のG12C薬は、RASが一瞬OFF状態に戻る隙を捉えて共有結合する設計だった。しかしG12Dをはじめ多くの変異型は、ほとんどの時間をON状態で過ごすため、OFFを狙う戦略では捕まえきれない。daraxonrasibはそこを逆転させ、シグナルを発している当のON状態のRASを、シクロフィリンAという細胞内に豊富に存在するタンパクと”糊付け”することで物理的に機能不全にする。標的が逃げ込む先(ON状態)そのものを罠に変えたわけだ。この機序ゆえに、特定の取っ手に依存せず複数の変異型を横断的に抑えられる。膵がんのように単一患者内でもKRAS変異が不均一になりうる腫瘍にとって、この”変異を問わない”性質は決定的な利点になる。
FDAはdaraxonrasibに対し、膵がんでの希少疾病用医薬品指定に加え、KRAS G12変異を持つ既治療転移性膵がんでブレークスルーセラピー指定を付与したと報告されている。規制当局が「既存治療に対する実質的改善が見込める」と早期に判断したことは、RASolute-302の臨床的インパクトを裏書きする。膵がんで「効く分子標的薬」という概念が成立したこと自体が、この10年で最も大きな構造変化の一つである。これまで膵がんの薬物療法は、FOLFIRINOXやgemcitabine+nab-paclitaxelといった多剤併用化学療法が中心で、分子標的薬は一部のまれな遺伝子異常を除いてほぼ出る幕がなかった。最も患者数が多く、最も予後の悪いドライバー変異であるKRASに直接届く薬が登場したことは、膵がん治療の構造そのものを書き換える起点になりうる。
G12Dという本丸——いま走る5つの矢
RASolute-302が”汎RAS”の旗手だとすれば、もう一つの主戦場は単一変異KRAS G12Dへの直接攻略である。G12Dは膵がん・大腸がん・肺がんを通じて最も高頻度のKRAS変異であり、ここを叩けることの価値は計り知れない。本会議のExpert Commentary(Day2)では、G12D阻害群が「有望な有効性を示し、用量制限毒性は観察されず、特にPDACとNSCLCで期待できる」と総括された。注目すべきは、同じ「G12Dを叩く」という目標に対し、開発各社がまったく異なる分子戦略で殺到していることである。
| 薬剤(コード) | 開発元 | 機序・設計 | 主な標的がん |
|---|---|---|---|
| daraxonrasib(RMC-6236) | Revolution Medicines | RAS(ON) 汎RAS阻害(トライコンプレックス) | PDAC ほか |
| zoldonrasib(RMC-9805) | Revolution Medicines | RAS(ON) G12D選択的・共有結合 | NSCLC・PDAC |
| setidegrasib(ASP3082) | Astellas | KRAS G12D 標的タンパク分解(分解誘導) | PDAC(第3相進行中) |
| INCB161734 | Incyte | G12D ON/OFF両状態 選択的阻害 | PDAC ほか |
| HRS-4642 | Hengrui(恒瑞) | 非共有結合・長時間作用型 G12D阻害 | 固形がん・PDAC |
この一覧が示すのは、G12Dという単一標的に対して「阻害(薬で機能を止める)」「分解(タンパクそのものを壊す)」「ON状態への共有結合」という三つの根本的に異なるアプローチが同時並行で走っているという、創薬戦略上きわめて稀な状況である。なかでもsetidegrasib(ASP3082)は、阻害ではなく標的タンパク分解(targeted protein degradation)でG12Dを物理的に除去する分解誘導薬であり、Astellasが第3相をPDAC1次治療で開始したと報告されている。zoldonrasibはRAS(ON)のG12D選択型としてNSCLCで約52%の奏効率が報告され、ブレークスルーセラピー指定を取得したとされる。一つの変異に対して機序の異なる複数の有力候補が出揃うこと自体が、その標的が「臨床的に攻略可能」と業界全体に認識された証左である。
なぜ一つの標的にこれほど多様な機序が集まるのか。理由は、それぞれの戦略が異なる弱点と強みを持つからだ。低分子阻害は経口投与しやすく実績もあるが、活性部位への結合に依存するため耐性変異が出やすい。分解誘導は標的タンパクを丸ごと除去するため、阻害が効きにくい局面でも作用しうるうえ、わずかな薬剤量で繰り返し分解を促す”触媒的”な効き方が期待される。ON/OFF両状態を捉える設計は、変異型がどちらの状態に偏っていても取りこぼしを減らす。各社は「どの弱点を突けば、先行薬の限界——狭い適応・早い耐性——を越えられるか」を競っているのであり、この多様性こそがG12D攻略が本格化した何よりの証拠である。
もう一つ見逃せないのが、RAS経路を”横”から攻める発想だ。onvansertib(Cardiff Oncology)はPLK1(polo様キナーゼ1)阻害薬であり、RASそのものではなく、RAS変異細胞が依存しやすい細胞分裂のチェックポイントを叩く。本会議では、標準化学療法+bevacizumabにonvansertibを上乗せしたCRDF-004(第2相、Abstract 3510)が、1次治療のRAS変異転移性大腸がん(mCRC)を対象に検討された。大腸がんでは膵がんと違いG12D一辺倒ではなく、G12V・G13D・G12Cなど多様なKRAS変異が混在するため、変異型に依存しない”側面攻撃”の価値が相対的に高い。RASを直接叩けない、あるいは直接阻害だけでは耐性が出る局面で、合成致死的な脆弱性を突く併用は、汎RAS薬・G12D薬とは別系統の有力な”第二の矢”になりうる。直接阻害薬とPLK1阻害のような経路依存性を突く薬を組み合わせる発想は、RAS創薬の次のフロンティアの一つだ。
系譜で読む——「G12C → G12D → 汎RAS」という進化の三段ロケット
2026年のRAS地図を一枚で理解する鍵は、この標的が辿ってきた三段階の進化を時系列で重ねることにある。
- 第1段(2021–2022):G12Cの突破。sotorasib・adagrasibが、反応性システインという”取っ手”を持つ唯一の変異を共有結合で叩き、「RASは創薬できる」を初めて証明した。ただし対象は限定的で、耐性も早く出た。
- 第2段(2023–2026):G12Dへの本丸侵攻。膵がん・大腸がんを支配する最頻変異G12Dへ、阻害・分解・ON結合という多様な分子戦略が殺到。「取っ手のない変異」にも複数の攻略路が開かれた。
- 第3段(2026–):汎RASという統合解。変異型を選ばず活性型RASを束ねて抑えるdaraxonrasibが、最難治の膵がんでOS改善を示した。個別変異を一つずつ攻略する発想から、「RASシグナルそのものを面で抑える」発想への転換である。
この三段ロケットは、単なる薬剤の増加ではなく創薬思想の深化を表している。「弱点(システイン)を探して点で叩く」段階から、「主要変異を一つずつ面で攻める」段階を経て、「RASという経路そのものを統合的に制御する」段階へ。各段が前段の限界——狭い適応、早い耐性、変異の多様性——を乗り越えようとして生まれてきた。2026 ASCOは、この三段が同じ会期に同居した最初の年として記憶されるだろう。
興味深いのは、この三段が「置き換え」ではなく「重層化」している点だ。汎RAS薬が登場したからといってG12C薬やG12D特化薬が不要になるわけではない。むしろ、患者の変異プロファイル、がん種、前治療歴に応じて、これらが使い分けられ、あるいは時間軸で順に使われるレパートリーが厚みを増していく。たとえば一次で汎RAS薬を使い、耐性が出たら変異特化薬や経路阻害薬の併用に切り替える——といった”層を成す戦略”が現実味を帯びる。RAS創薬は、単一の決定打を探す段階を終え、複数の武器をどう組み合わせるかという成熟期の入り口に立っている。
競争構図——Revolution Medicinesの先行と、追走する巨人たち
現在のRAS創薬レースを俯瞰すると、Revolution Medicinesが汎RAS(daraxonrasib)とG12D選択(zoldonrasib)の両輪で明確に先行している。RAS(ON)というプラットフォーム——活性型RASをシクロフィリンAとの三者複合体で封じる——を軸に、一社で複数の変異領域を横断的にカバーしている点が同社の強みだ。膵がんという最大かつ最難の市場で第3相のポジティブ結果を先に出したことは、競争上の決定的なマイルストーンになりうる。
これを追うのが、異なる武器を持つ巨人と新興勢である。Astellasはsetidegrasib(ASP3082)という”分解誘導”の独自路線でG12Dの第3相に踏み込み、IncyteはON/OFF両状態を捉えるINCB161734で、Hengrui(恒瑞)は非共有結合・長時間作用型のHRS-4642で参入する。中国発バイオの台頭はRAS領域でも顕著で、G12D創薬は欧米一極ではなくグローバルな多極競争になっている。さらにonvansertib(Cardiff Oncology)のようなPLK1阻害による”側面攻撃”が、直接阻害薬の併用パートナーとして固有のニッチを狙う。
この競争を経済的な観点から見ると、その規模感が際立つ。RAS変異がんは膵がん・大腸がん・肺がんという患者数の多い主要がん種に広く分布し、しかも従来は有効な標的治療がほぼ存在しなかった。つまりRAS創薬は、医学的な空白が大きいぶん、勝者がきわめて大きな臨床的・商業的インパクトを獲得しうる領域である。だからこそ大手・新興・中国発バイオが一斉に資源を投じ、機序の異なる候補が同時多発的に臨床へ押し寄せている。膵がんでの第3相ポジティブという最初の決定打が出たことで、この競争は「概念実証フェーズ」から「市場とポジショニングを争うフェーズ」へと一段ギアが上がった。
競争の焦点は今後、「単剤での生存延長」から「最適な併用と投与順序」「耐性の制御」「変異横断のカバレッジ」へと移る。汎RAS薬が一次治療の基盤になるのか、G12D特化薬が変異別の精密医療として棲み分けるのか、あるいは両者と化学療法・免疫療法の三者併用が標準になるのか——この主導権争いが、向こう数年のRAS創薬の地図を塗り替える。鍵を握るのは、各社が自社プラットフォームをどれだけ速く複数のがん種・複数の併用へ展開できるか、そして耐性が顕在化したときに次の一手(次世代分子や併用レジメン)をどれだけ用意できているか、である。
膵がんで成立した意味と、「次に来る5本の矢」
RASolute-302が膵がんでOS改善を示したことの意味は、単に一つの新薬が増えたという以上に大きい。膵がんは、診断時にすでに進行していることが多く、化学療法以外の有効な選択肢に乏しく、5年生存率が全がん種で最低水準にとどまってきた領域である。その膵がんで「分子標的が効く」という事実は、RAS標的が”概念実証”を越えて”臨床現実”になったことを示す。では、ここから先、何が来るのか。トレンドの延長線上に見える「次の5本の矢」を提示しておきたい。
- ① 一次治療への前進と併用の標準化:単剤の後治療から、化学療法(gemcitabine/nab-paclitaxel等)との一次併用へ。膵がんの初手にRAS薬が組み込まれる流れ。
- ② 変異特化薬の精密な棲み分け:G12D・G12V等、変異別に最適化された薬剤が、コンパニオン診断とともに使い分けられる時代へ。
- ③ 耐性メカニズムへの先回り:直接阻害で必ず生じる獲得耐性に対し、SHP2・SOS1・MEK等の上下流併用や、汎RAS化による耐性回避の設計。
- ④ 免疫療法との接続:RAS阻害が腫瘍微小環境を”免疫が効きやすい状態”へ転換しうるとの知見を踏まえた、IO併用の探索。
- ⑤ 標的タンパク分解という第二潮流:阻害ではなくsetidegrasibのようにRASタンパクを”壊す”分解誘導が、耐性・選択性の課題に別解を与える可能性。
これら5本の矢のうち、特に注目したいのが①と③の交差点だ。RAS薬を後治療から一次治療へ前進させようとすれば、必然的に化学療法との併用が前提になり、その瞬間に耐性の出方や毒性プロファイルが単剤とは異なる様相を見せる。Revolution Medicinesが第3相で一次併用(gemcitabine/nab-paclitaxelとの組み合わせ)や術後(切除後)膵がんを並行して進めていると報告されているのは、まさにこの”前進”を最短で取りに行く動きだ。一次治療で効果が確立すれば、RAS薬は膵がんの初期診断時点から治療設計に組み込まれ、これまで化学療法一択だった現場の標準そのものが変わる。
これら5本の矢に共通するのは、「RASを一度叩いて終わり」ではなく、「RAS経路を時間軸・併用・モダリティの三次元で制御する」という発想への移行である。2026 ASCOは、その移行が膵がんという最も象徴的な戦場で号砲を鳴らした年だった。RAS標的の各論的な深掘り——個別試験の詳細データや耐性機序の分子生物学——は、本シリーズの別稿で改めて扱う。本稿では「壁が崩れはじめた」という大きな方向性を刻んでおきたい。次に来るのは、この壁の崩落を肺がん・大腸がんへ、そして一次治療へと押し広げる、より大きな雪崩である。
My Thoughts and Future Outlook
「KRASは創薬できない」——医学を学んだ多くの人が、長らくそう教わってきた。だから今回のニュースは、専門外の読者にこそ届いてほしい。膵がんは”診断=絶望”と語られがちながんだ。その膵がんで、飲み薬の分子標的薬が生存期間をほぼ倍に延ばした。これは「いつか効く薬が出るかもしれない」という願望ではなく、第3相で示された現実である。40年拒み続けた標的が、ついに最も硬い壁で崩れはじめた——その歴史的瞬間を、まずは素直に受け止めたい。
一方で、専門家としては高揚を一段抑えて見る必要がある。OS中央値13.2か月は確かな前進だが、膵がんの絶対的予後はなお厳しく、「治癒」にはほど遠い。直接的なRAS阻害には必ず獲得耐性が立ちはだかり、G12Cで経験したとおり、半年前後で進行する患者が一定数生じる構図は汎RAS薬でも繰り返される可能性が高い。本当の勝負は、単剤の生存延長ではなく、併用・投与順序・耐性回避という”使いこなし”の設計にある。
足りないのは、長期追跡のOSデータ、変異横断での頭打ち地点の把握、そして併用の最適解だ。それでも、阻害・分解・汎RASという複数の機序が同じ標的に殺到し、最難治がんで結果が出はじめた2026年は、RAS創薬の”転換点の年”として記憶されるだろう。次に問われるのは、この勝利を膵がん以外のRAS駆動がんへ、そして一次治療へどう広げるかである。
※本記事は ASCO(米国臨床腫瘍学会)2026年次総会の公表情報および各試験の発表資料等を基に Morningglorysciences が独自に要約・分析したものです。診療方針の決定にあたっては、必ず原著論文・最新のガイドライン・各国添付文書をご参照ください。
ASCO2026 総集編 — シリーズ記事一覧
本稿は全6回シリーズ「ASCO2026 総集編」の一編です。シリーズ全体の俯瞰はVol.1 序章(ハブ記事)をご覧ください。各回は独立して読めますが、相互に補完し合う構成です。
- Vol.1 序章:モダリティ革命の全体地図【ハブ】
- Vol.2 RAS:“不治の標的”の陥落(本稿)
- Vol.3 ADC:がん種の壁を越える
- Vol.4 二重特異性抗体:PD-1×VEGFの挑戦
- Vol.5 GLP-1・代謝:代謝×腫瘍の最前線
- Vol.6 締章:公平性・液体生検・AI

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