はじめに──過去の知識が未来の薬を決める時代
AI創薬の時代が本格的に始まって久しくなりました。新たな薬の候補を見つける速度、構造予測の精度、探索領域の拡張性――そのいずれも、かつてないレベルで進化しています。現代の創薬研究では、過去に蓄積された膨大な知識をAIが読み解き、新たな候補化合物や疾患関連経路を提示することが日常となりつつあります。
しかし、こうした技術革新の裏に、ひとつ見落とされがちな前提があります。それは、「過去の知識は本当に正しいのか?」「AIはその真偽を見極められるのか?」という問いです。本記事では、この静かな壁=再現性の問題に焦点を当て、AI創薬の限界と、だからこそ人間の判断が不可欠である理由を解説していきます。
AI創薬の出発点は“過去の学術知識”
AI創薬で使われるデータの多くは、過去の学術論文や構造データベース、オミクス解析データなどです。代表的な情報源を以下に示します。
- PubMed / PMC:論文抄録や本文(自然言語処理の対象)
- ChEMBL / BindingDB:化合物-標的の関係データ
- GEO / TCGA:遺伝子発現データや患者サンプル
- PDB / AlphaFold:タンパク質の構造情報
これらはAIモデルにとって、言わば「教材」です。過去の知識を学び、そこから傾向を抽出し、新たな仮説を生成する――これがAI創薬の基本的な仕組みです。
しかし、ここには一つ前提があります。それは、「過去のデータが正しいこと」です。
再現されなかった論文の実例:AmgenとBayerの衝撃
AI創薬の根幹をなす「過去の学術論文」に対して、製薬企業自身が大規模な再現性検証を行った事例があります。それが、AmgenとBayerによるものです。
Amgenの検証結果(2012年)
- 対象:著名な腫瘍関連論文53本
- 結果:再現できたのは6本(約11%)のみ
- 出典:Begley & Ellis, Nature (2012)
Bayerの検証結果(2011年)
- 対象:同社で重要と判断された67件のターゲット候補研究
- 結果:再現性を確認できたのは20~25%程度
- 出典:Prinz et al., Nature Reviews Drug Discovery (2011)
この2つの結果が意味するのは、「有名誌に掲載された論文であっても、前臨床段階では再現できないことがある」という事実です。
なぜ論文は再現できないのか──構造的背景
「再現できない=捏造」ではありません。実際には以下のような構造的・技術的要因が複合的に絡んでいます。
● 統計手法や解析パイプラインの違い
同じ生データを用いても、統計処理や正規化の方法が異なれば結果も変わります。
● 材料のばらつきやプロトコルの曖昧さ
細胞株のロット差、培養条件の微妙な違いなどが大きく影響します。
● 曖昧な記載・情報の非公開
論文上では簡潔に記述されていても、実際には多数の“暗黙知”が含まれていることも少なくありません。
こうした要因はすべて、AIモデルからは読み取れません。結果として、AIは「正しいもの」と「ノイズ」を区別できないまま学習してしまいます。
AIが“真贋”を見分けられない理由
現時点のAIは、以下のような情報を区別する力を持っていません。
| AIが得意なこと | AIが苦手なこと |
|---|---|
| 過去の文献からパターンを学習する | 情報の出所(どの研究室・誰が出したか)を評価する |
| 化合物の構造や相関を予測する | データの背景や再現性の文脈を理解する |
| 統計的に最適化された出力を出す | 生物学的整合性や実験的妥当性を判断する |
つまり、論文の“内容”だけでなく、“誰が出したか”という重要な背景情報を、AIは扱えないのです。
再現されなかった研究は、どう扱われているのか
こうした「再現性の低い研究」は、どうなるのでしょうか? 現実には、多くの場合、公的に否定されることはありません。その代わりに以下のような形で“自然淘汰”が進みます。
- 引用されなくなる
- 他の研究者との共同研究が減る
- 招待講演や学会発表に呼ばれなくなる
これは、いわば**“名前を出さない制裁”**です。そしてその研究者は、コミュニティから静かに外されていくのです。
この構造は、AIには読み取れない
こうした暗黙のネットワークや信頼構造は、AIには“見えない”情報です。たとえば、以下のようなことはAIには判断できません。
- このラボは過去にどんな撤回歴があるか?
- この研究者の系統は信頼されているか?
- この研究は他のラボで独立に再現されたか?
つまり、AIが出力する提案は、内容上正しそうに見えても、その根拠が実は不安定なことがあり得るのです。
では、どうすればいいのか?
ここまでの議論を踏まえて、私たちがAI創薬を利用する際に取るべき姿勢は明確です。
- 過去の知識を盲信しないこと
- 提案された仮説の根拠を人間が評価すること
- 信頼できる研究者・ラボのネットワークを知っておくこと
つまり、「AIに任せておけば良い」のではなく、AIを正しく使うには、人間側の知見と経験が必要だということです。
私の視点と考察
私自身も、過去の学会や研究現場で、発表者が自ら「実はこのデータは再現できなかった」と明かした場面に何度も立ち会ってきました。それは論文に記されることも、撤回されることもありません。けれど、その情報は関係者の間で静かに共有され、研究の方向性や人材の評価に影響していくのです。
だからこそ、今のようにAIが過去の論文を自動的に読み込み、モデル化していく時代には、そうした「現場の空気」や「関係性の中で見える真贋」を読み取れる人間が絶対に必要です。
信頼というのは、積み上げていくものであり、数値化も簡略化もできません。その非形式的な価値こそが、実は未来の創薬において最も重要な羅針盤になると私は考えています。
※Morningglorysciences 編集チームによる編集・監修済み
(記事内容は2025年12月時点の知見と分析に基づいています)
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