KRAS創薬が大きな転換期を迎える中で、いま最も注目を集めている存在がある。 それがWild-type KRAS(野生型KRAS)である。 変異型KRASががんのドライバーであることは疑いようがないが、最近の研究では、治療後に残存するWT-KRASが腫瘍の“再起動ボタン”として働くことが明らかになりつつある。
本稿では、「なぜWild-type KRASががん治療において重要なのか」を中心に、耐性メカニズム、分子シグナル、創薬戦略の最前線を総合的に解説する。
1. Wild-type KRASとは ― “正常なRAS”ががん細胞で果たす異常な役割
ヒト細胞には、変異型KRASと共に野生型KRASが共存している。 このWT-KRASは正常組織では生理的なシグナル調整役を担うが、がん細胞では状況が異なる。 変異KRASのシグナルが阻害されると、WT-KRASが即座に活性化され、代替経路として腫瘍の生存を維持するのだ。
この現象は、2023年のScience Signaling誌(Bar-Sagiら)によって初めて詳細に報告された。 研究チームは、KRAS阻害薬投与後の腫瘍細胞でWT-KRASが迅速にGTP結合型(活性型)へと変化し、 PI3K–AKT経路やMAPK経路のシグナル再構築を引き起こすことを示した。
言い換えれば、KRAS変異を叩くと、WT-KRASが“立ち上がる”のである。
2. WT-KRAS活性化のメカニズム ― RTKとSHP2がスイッチを押す
WT-KRASが活性化される主な引き金は、上流の受容体チロシンキナーゼ(RTK)群である。 特にEGFR、HER2、MET、FGFRが代表的であり、KRAS阻害により生じた負のフィードバック解除を契機にこれらRTKが過剰に反応する。
RTKシグナルは、細胞質のアダプターSHP2を介してRAS–SOS複合体を再活性化し、結果としてWT-KRASをGTP結合型に戻す。 この「RTK–SHP2–WT-KRASループ」が、KRAS阻害薬耐性の主要経路であることが分かってきた。
実際、KRAS G12C阻害薬に対する耐性株のほぼすべてで、RTKとWT-KRASの共活性化が確認されている。 これにより、RAS阻害薬の持続的効果が妨げられ、腫瘍は再成長する。
3. “RASネットワーク”としての理解 ― 変異型と野生型の相互補完
従来の概念では、「変異型KRAS=悪役」「WT-KRAS=正常」という二分法的な理解が主流だった。 しかし、近年の多オミクス解析により、両者の関係は共犯的であることが明らかになっている。
変異KRASが恒常的にMAPK経路を活性化する一方で、WT-KRASはPI3K経路を主に維持する。 つまり、がん細胞は2種類のKRASを使い分け、シグナル多重化によって耐性を構築している。 この現象は「RASシグナルの分業化(division of labor)」とも呼ばれる。
この構造を理解することが、次世代RAS治療の設計に欠かせない。
4. 創薬戦略1:Mutant+WT同時阻害 ― “RAS(ON)”を狙う新世代薬
この課題に最初に挑んだのが、Revolution Medicines社である。 彼らが開発したRMC-6236およびRMC-7977は、KRAS変異型と野生型の両方の活性型RAS(GTP結合状態)を同時に標的化する「RAS(ON)阻害薬」である。
このアプローチは、変異特異的阻害ではなく、構造状態(ON状態)を標的にするという点で画期的である。 前臨床では、WT-KRASの再活性化を防ぐことで耐性を抑制できることが確認されており、2025年現在、膵がん・大腸がんを対象とする試験が進行中だ。
5. 創薬戦略2:上流制御 ― SHP2・SOS1阻害による再活性化遮断
WT-KRASの再活性化を阻むもう一つのアプローチが、上流の信号伝達を断つ戦略である。 特に注目されているのが、SHP2阻害薬(TNO155, RMC-4630など)とSOS1阻害薬(BI-1701963など)の併用である。
これらはKRAS阻害薬と同時投与されることで、RTK経路を遮断し、WT-KRASの再点火を防ぐ。 臨床的にも、KRAS G12C阻害薬+SHP2阻害薬の併用で耐性発現の遅延が確認されつつある。
6. 創薬戦略3:WT-KRASの分解 ― DegraderとTTPD技術
KRASの「分解薬」も次なる潮流である。 PROTAC技術に基づくPan-KRAS degrader(例:ACBI3)は、変異型・野生型を問わずRASタンパク質をユビキチン化し、プロテアソーム経路で除去する。 これにより、WT-KRASを含むRASネットワーク全体を一時的にリセットできる可能性がある。
さらに、最近登場したTTPD(Trivalent Targeted Protein Degradation)は、複数RASサブタイプを高効率で分解する第3世代技術として期待されている。
7. 免疫再構築との関係 ― WT-KRASは免疫抑制の“黒幕”
KRAS阻害によって腫瘍免疫環境が変化することもわかってきた。 WT-KRASが残存すると、腫瘍細胞はCXCL1やIL-6など免疫抑制性サイトカインを再び放出し、T細胞浸潤を妨げる。 一方でWT-KRASを抑制すると、免疫チェックポイント阻害薬との相乗効果が生じることが複数の研究で確認されている。
つまり、WT-KRAS制御は単なるシグナル遮断ではなく、腫瘍免疫再構築の起点でもある。
8. 将来展望 ― Wild-type KRASを“敵”から“味方”へ
WT-KRASは本来、細胞の恒常性維持に欠かせない分子である。 したがって完全な阻害は望ましくない。 今後の方向性は、WT-KRASを「殺す」ではなく、「再教育」する、つまり選択的制御や一時的抑制を実現する精密創薬だ。
また、AI・量子計算を用いたRASネットワーク解析により、WTとMutantの動的関係をリアルタイムで捉える試みも始まっている。 このような「システムRAS治療学」は、次の10年を形づくる概念になるだろう。
9. 私の考察 ― RAS創薬の“最終章”はここから始まる
KRAS阻害の成功は、RAS創薬の幕開けに過ぎない。 真のターゲットは、変異体だけでなくWTを含むRASシグナル全体にある。 “Wild-type KRASを理解し制御すること”こそが、耐性を克服し、がんを慢性疾患化する唯一の道であると私は考える。
今後は、「WTを殺さず、WTを飼いならす」戦略が現実になるだろう。 それは生物学の理解と工学的創薬の融合によって初めて可能になる。
次回予告:第4回 ― KRASと免疫、そして再生医療の接点へ
次回は、KRAS阻害と腫瘍免疫の関係、さらに再生医療・加齢研究との意外な接点を探る。 がんの制御を超え、細胞リプログラミングの未来へ──。
この記事はMorningglorysciences編集部によって制作されました。
関連記事










コメント