前回のVol.3では、正常な乳房がどんな仕組みでできていて、どこで細胞が「がん化」の最初の一歩を踏み出すのかを見てきました。乳管の内側を覆う一個の細胞のDNAに、いくつもの傷(変異)が積み重なる——そこが物語の始まりでした。
では、その始まりの一個は、そこからどうやって「病気」と呼べるほどの存在へと育っていくのでしょうか。今回は、たった1個の細胞から、やがて他の臓器へ広がる入口にたどり着くまでの“育ちの物語”を、時間の流れに沿ってたどります。むずかしい言葉は、出てくるたびにやさしく言い換えます。そしてこの物語の途中には、進み方を大きく分ける4つの分岐点があります。なぜ医療者が「早期」という言葉にあれほどこだわるのか——その生物学的な理由が、物語の最後に静かに姿を現します。
第一幕:1個の細胞が「ルール」を忘れる
私たちの体の細胞は、本来とても規律正しく暮らしています。必要なときだけ分裂して数を増やし、役目を終えたり、傷が深すぎたりすれば、自ら静かに退場する——この「自分から死ぬ」仕組みをアポトーシス(細胞の自爆装置)と呼びます。組織全体が増えすぎないよう、細胞同士が手をつなぎ、互いに「もう増えなくていい」と合図を送り合ってもいます。
がん化とは、この規律を一つずつ失っていく過程です。細胞が分裂するかどうかは、車のアクセルとブレーキのような仕組みで決まっています。アクセル役の遺伝子(がん遺伝子)が踏みっぱなしになったり、ブレーキ役の遺伝子(がん抑制遺伝子)が壊れたりすると、細胞は「増えよ」という命令ばかりを聞くようになります。前回ふれたドライバー変異(運転席に座る変異)とは、まさにこのアクセルとブレーキを狂わせる傷のことです。
ここで一つ、知っておくと安心できる仕組みがあります。私たちの細胞には、分裂の途中に「関所(チェックポイント)」がいくつも設けられているのです。なかでも有名なのが、分裂の準備段階から次の段階へ進む手前にある関所で、ここではp53(ピー・ゴーサン)と呼ばれるタンパク質が門番として待ち構えています。DNAに傷が見つかると、p53は「いったん止まれ」と分裂にブレーキをかけ、傷を直す時間をかせぎ、直せないほどひどければ先ほどの自爆装置(アポトーシス)のスイッチを押します。p53が「ゲノムの守護者」と呼ばれるのはこのためで、実際、ヒトのがんのおよそ8割で、このp53か、その周辺の仕組みに異常が見つかります。門番が眠ってしまった細胞は、傷を抱えたまま平気で分裂を続け、傷の上にさらに傷を重ねていくのです。
ここが第一の分岐点です。ふつうの細胞なら、DNAにこれほどの傷が積もれば関所で止められ、自爆装置が働いて退場します。ところが、傷の組み合わせ次第で、細胞はこの関所も自爆装置も無効にしてしまう。「死ぬべきときに死ななくなった細胞」が、増え続ける権利を手に入れる——これが、がんという物語の本当の幕開けです。
大切なのは、これが一夜にして起きるわけではない、という点です。アクセルが踏まれ、ブレーキが壊れ、関所の門番が眠り、自爆装置が無効になる——こうした傷は、たいてい何年もの時間をかけて一つずつ積み重なっていきます。一個の変異だけでがんになることはめったになく、いくつもの「鍵」が順に外れてはじめて、細胞は本格的な暴走を始める。だからこそ、がんの物語にはゆっくり進む時間があり、その途中で見つけ、止める余地が生まれるのです。
第二幕:その場で増える — 上皮内という”待合室”
ルールを忘れた細胞は、分裂をくり返して仲間を増やしていきます。細胞が分裂して2個になるまでの一連の準備と実行の流れを細胞周期と呼びます。細胞周期は、おおまかに「分裂の準備をする時期」「DNAを丸ごとコピーする時期」「コピーを点検する時期」「実際に二つに分かれる時期」という四つの場面が、ぐるぐると回る輪のようになっています。健康な細胞では、先ほどの関所がこの輪のところどころで回転を止め、必要なときだけ慎重に一周させます。ところが、がん細胞ではこの関所が壊れているため、輪が止まりにくく、回り続ける。1個が2個に、2個が4個に——倍々で増えるため、数の上では驚くほどの勢いになりえます。のちのVol.5で出てくるKi-67(ケーアイ・ろくなな)という検査値は、まさに「いま分裂の輪を回している細胞がどれくらいあるか」を映す目盛りで、この勢いの強さをうかがう手がかりになります。
ただし、この段階のがんは、生まれた場所の中だけで増えています。乳管なら乳管の管の中、小葉なら小葉の袋の中。この、「その場にとどまっている」状態を上皮内がん(じょうひないがん)と呼びます。乳管にとどまるものは「非浸潤性乳管がん」、英語の頭文字からDCIS(ディーシーアイエス)とも呼ばれます。
なぜ「とどまる」のか。乳管の細胞のすぐ外側には、基底膜(きていまく)という薄いけれど丈夫な仕切りの膜があり、さらにその内側を筋上皮細胞という見張り役の細胞が裏打ちしています。この二重の壁が、がん細胞を管の内側に押しとどめているのです。いわば、がん細胞が増えてはいても、まだ「待合室」から外に出ていない状態。上皮内がんが「ステージ0」とも呼ばれ、適切に対処すればきわめて予後が良いのは、この壁がまだ破られていないからです。これが第二の分岐点——壁の内か、外か。
第三幕:壁を破る — 浸潤という決定的な一線
物語が大きく動くのは、がん細胞がこの基底膜の壁を破って外へにじみ出るときです。これを浸潤(しんじゅん)と呼びます。上皮内(その場にとどまる)から浸潤(壁を越えて広がる)へ——この一線を越えることが、乳がんの育ちにおける最も決定的な転換点です。
壁はどう破られるのでしょうか。研究によれば、これは単純な「力ずく」ではありません。見張り役だった筋上皮細胞がその性質を失って壁を支えられなくなり、基底膜があちこちでほつれ、断片化していく。同時に、がん細胞は周囲の組織を溶かす酵素を出し、壁の隙間からしみ出すように外へ進みます。前回学んだ間質(かんしつ)——乳管や小葉を支える周囲の土壌——へと、がんがついに足を踏み入れるのです。
ここで起きているのは、壁が壊れることだけではありません。がん細胞自身も性質を変えます。それまで隣どうしきっちり手をつなぎ、行儀よく一列に並んでいた細胞が、その手を離し、形を変えて、一個ずつ動ける「はぐれ者」のように振る舞いはじめるのです。研究者はこの変身を、上皮の細胞がより動きやすい性質へ衣替えする現象として説明しますが、要は「その場に固定された細胞」から「動ける細胞」への転換が、壁の突破と二人三脚で進む、ということです。動く力を得た細胞でなければ、壁の隙間から外へにじみ出ることはできません。壁が弱くなることと、細胞が動けるようになること——この二つがそろってはじめて、浸潤という一線が越えられるのです。
この「浸潤」が起きたかどうかは、顕微鏡で組織を見る病理医が、がん細胞が基底膜の外にいるかどうかで判定します。上皮内にとどまるDCISと、壁を越えた浸潤がんの区別は、診断と治療方針を分ける最も重要な線引きの一つです。この線引きを専門のレベルで詳しく見るのが、後半のVol.12「病理学が見ているもの」です。今回はその橋渡しとして、「壁を越えるかどうかが運命を分ける」という生物学の骨格だけ、しっかり胸に置いてください。
第四幕:自分専用の血管を引く — 育ちを支える生命線
浸潤して間質へ出たがんも、放っておけば実はそれほど大きくはなれません。ここに、意外な天井があります。
がん細胞も、生きるには酸素と栄養が要ります。それらは血管からしみ出して、周囲の細胞へ届けられます。ところが、酸素が血管からしみ込んでいける距離はおよそ0.1〜0.2ミリほどしかありません。つまり、最寄りの血管から遠い細胞は酸素を受け取れない。この物理的な制約のために、自前の血管を持たないがんの塊は、だいたい1〜2ミリ程度で頭打ちになってしまうのです。中心部の細胞は酸素不足(低酸素)に陥り、それ以上は育てません。1〜2ミリといえば、まだ手では触れられず、検査の画像にもようやく映るかどうかという小ささです。多くのがんが、この見えない小ささのまま、長く静かにとどまっている可能性があるのです。
ここでがんは、巧妙な手を打ちます。酸素が足りなくなった細胞は、低酸素を感じ取るセンサー(その中心となるのがHIFと呼ばれるタンパク質です)を働かせ、VEGF(血管内皮増殖因子)という”呼び寄せシグナル”を放ち、周囲の血管に「こちらへ枝を伸ばしてくれ」と呼びかけるのです。すると新しい血管が、がんの塊に向かって伸びてくる。この新しい血管をつくらせる働きを血管新生(けっかんしんせい)と呼びます。自分専用の補給線を引くことで、がんは1〜2ミリの天井を突き破り、さらに大きく育てるようになります。これが第三の分岐点——血管を引けるか否か。「血管新生スイッチ」が入った腫瘍だけが、本格的な成長の段階へ進むのです。
逆に言えば、このスイッチが入らないかぎり、がんの塊は小さなまま、いわば足踏み状態でとどまることもあります。同じように壁を越えたがんでも、補給線を引けたものだけが先へ進む——この一点が、がんの「育ちの速さ」が個々で大きく違う理由の一つです。しかも、急いでつくられたがんの血管は、正常な血管のような整った構造を持たず、壁にすき間が多く、ねじれて水漏れしやすい、いびつな配管になりがちです。この”雑なつくり”が、のちのち薬を届けにくくしたり、がん細胞が血管へもぐり込む隙を与えたりと、治療の難しさにも影を落とします。なぜあるがんは血管を呼び寄せ、あるがんは呼び寄せないのか。その引き金を正確に見分けることは、いまも研究の最前線の課題であり続けています。
終幕:転移の入口 — そして”早期”が決定的な理由
血管新生には、もう一つの重い意味があります。がんのそばまで伸びてきた血管は、栄養を運ぶ補給線であると同時に、がん細胞が全身へ旅立つための”乗り場”にもなってしまうのです。しかも先ほど触れたように、新生血管は壁がもろくすき間だらけ。がん細胞にとっては、もぐり込むのにこれほど好都合な”乗り場”はありません。
浸潤したがん細胞のなかには、第三幕で得た「動く力」をさらに進め、この新しい血管の壁をくぐって血液やリンパの流れに乗り込むものが現れます。血管の中へ入り込むこの一歩を血管内侵入(けっかんないしんにゅう)と呼び、これこそが転移の入口です。流れに乗ったがん細胞が、肺・肝臓・骨・脳といった離れた臓器にたどり着き、そこで新たに育ち始めると、それが「転移」です。これが最後の、そして最も重い第四の分岐点——とどまるか、旅立つか。
ただし、旅立った細胞のすべてがすぐ新たながんを築くわけではありません。血流に乗ったがん細胞の多くは途中で力尽き、たどり着いた先でも、すぐには増えずに長く眠ったままになることがあります。この「眠る」性質が、何年も経ってからの再発という、乳がんの難しい一面の正体でもあります。眠った細胞がいつ、なぜ目を覚ますのか——その謎は、本シリーズの最終巻Vol.18でじっくり扱う、最前線の大きなテーマです。
ここまでの物語を振り返ると、「なぜ早期発見がこれほど決定的なのか」が、生物学の言葉ではっきり見えてきます。早期とは、この物語がまだ前半にある状態を指します。壁を越えていない上皮内のうち、あるいは浸潤しても血管に乗り込む前の小さな段階で見つかれば、がんはまだ「生まれた場所とその周り」にいる。手術で取りきれる可能性が高く、全身への旅立ちを前提とした重い治療を避けやすい。逆に物語が終盤まで進み、すでに細胞が旅立った後では、治療の難しさは一段も二段も上がります。「早期」が魔法の言葉なのではありません。まだ分岐点を越えていないうちに手を打てる、という生物学的な現実が、その言葉に重みを与えているのです。
次のVol.5では、ここまで「がん細胞」とひとくくりにしてきた主人公の、本当の正体に踏み込みます。同じように育つように見えて、乳がんには性格のまるで違う“5つの顔”があり、その顔つきこそが効く薬と見通しを分けます。本巻で名前だけ出てきたKi-67も、そこで意味を持ちはじめます。Vol.1で予告した「サブタイプ」を、いよいよ正面から見ていきましょう。
My Thought
がんの育ちを物語としてたどると、ひとつ心が軽くなる発見があります。それは、がんが「ある日突然できあがる」のではなく、いくつもの関門を一つずつ越えてきた結果だ、ということです。関門があるということは、途中で止められる機会も、見つけられる機会もある、ということ。検診や「気づき」が効くのは、この物語に途中駅がいくつもあるからにほかなりません。
書き手として一歩踏み込むと、ここで描いた4つの分岐点——関所と自爆装置の無効化、壁の突破、血管新生、そして血管への侵入——は、実は現代の乳がん治療の標的そのものとぴたりと重なります。増殖の輪を止め直す薬、血管新生を妨げる薬、転移の足場を断つ研究。つまり「がんはどう育つのか」を知ることは、「なぜその薬が効くのか」を理解する地図を手に入れることでもあります。
ただし、この物語にはまだ大きな空白があります。なぜ同じ上皮内がんでも、おとなしく一生静かなままのものと、壁を破って暴れ出すものがあるのか。その見分けは、いまだ完全には解けていません。どの分岐点を、誰が、いつ越えるのか——それを正確に予測する力こそ、最前線が次に挑む難問です。本シリーズが後半で扱う病理・診断・精密医療は、まさにこの空白を埋めようとする試みなのです。
このシリーズを続けて読む
- 第1回:乳がんは”ひとつの病気”ではない(シリーズの入口)
- 前の回:Vol.3|乳房という”木”が、なぜがんを生むのか:細胞・DNA・ホルモンから読み解く、がん化の入口
- 次の回:Vol.5|”5つの顔”を見分ける3つのスイッチ:サブタイプが治療と運命を分ける理由
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ご関心のあるがん種や疾患、ご質問などをコメントでお寄せいただけましたら、今後の特集で優先的に取り上げてまいります。

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